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6. オルタ美術館からタッセル邸へ

From Mussee Horta to Hotel Tassel

Hotel Tassel

 ジャンクシオン通りからフェリックス・デルア−ス通り(rue Ferix-Delhasse)に入ると、3軒のアール・ヌーヴォー建築が建っている。24番地(049 Habitation / Emile Lambot)がエミール・ランボー(Emile Lambot)、11番地(050 Habitation / Paul Hamesse)13番地(051 Habitation / Paul Hamesse)がポール・アメス(Paul Hanesse)の作品だ。少し行って左に曲がり、アンリ・ワーフェリール通り(rue Henri Wafelearts)に入ると、アントワーヌ・ポンプ(Antoine Pompe)のヴァン・ネック外科医院(052 Clinique de Van Neck / Antoine Pompe)が見える。アントワーヌ・ポンプは、コルビジェやCIAMに先駆けて「住宅は住むための機械である。」というスローガンを実践した建築家だ。ダークブラウンのファサードのこの医院を見てみよう。今はガラス窓に変えられてしまっているが、2階ジムの大開口は竣工当時ガラスブロックが使われていた。3階病室のオリエル窓の左右は、換気のため開閉できる様になっている。エントランスドアのブレースと取っ手を兼ねたデザイン、2階ジムのバルコニーのT形のシンプルなデザインの手摺はガラスブロックの窓を掃除のためのものであり、2階バルコニーの手摺はジムへの大型リハビリ器具搬入のため取り外し式になっている等、当時としては機能と意匠を統合した超モダンなデザインだったに違いない。これはもうアール・ヌーヴォーというよりは近代建築に足を踏み入れている建築だ。竣工は1910年である。この頃コルビジェはどの様なデザインをしていたか比べてみるのも面白いかも知れない。
 再びブルグマン大通りを南下する。左手にオルタのデュボア邸が見えて来る。彫刻家フェルディナン・デュボアのアトリエ兼住宅(053 Hotel Dubois / Victor Horta)だ。12ケ所の開口部が12種類の形の窓や扉になっている。それらのヴァリエイションを繋ぎ、まとまりをつけるためにブルーストーンの外壁にはオルタカーブのレリーフが刻み込まれている。2階右側の大開口部がアトリエか。その下には作品の搬出入のための大型の扉が付いている。通りの反対側から建築の全体像を味わったら、通りを渡って近くで細部を堪能しよう。開口部廻りのオルタカーブのレリーフ、ドアのノブ等、じっくり楽しんだら次へ向かおう。
 ブルクマン通りを少し南下し、ダウィン通り(rue Darwin)に入ると、右手に一目でブレロ(Ernest Blerot)の作品と分かる建物が2棟建っている。左側の建物が画家ルイーズ・ドゥ・エムのアトリエ(054 Atelier de Loise de Hem / Ernest Blerot)だ。隣(055 Habitation / Ernest Blerot)もブレロの作品に間違い無いと思われるが、データが無い。さらにフランツ・メルジェイ通り(rue Franz Merjay)に入り、ポール・ヴィザヴォナ(Paul Vizzavona)の住宅(057 Habitation / Paul Vizzavona)、アルフォンス・ボーレン(Alphonse Boelens)(056 Habitation / Alphonse Boelens)を見てから北上し、ウォータールー通り(chaussee de Waterloo)を渡り、タベリオン・ノタリ通り(rue de Tabellion Notaris)に入る。少し歩くとアメリカ通り(rue Americaine)だ。
 アメリカ通りと言えばオルタのアトリエ兼自邸だ。今はオルタ美術館になっている。この角を左に曲がって2ブロック目にそれはあるはずであるが、その前にこの角の向かい側に建っているアール・ヌーヴォー建築(058 Habitation / ****)に注目してみよう。手持ちの資料にはデータが無いので設計者等不明だが、これは明らかにアール・ヌーヴォー建築だ。ベイ・ウインドウのデザイン等ジュウ・ドゥ・バル広場のE.エルマンの集合住宅を思わせる。同じ建築家によるものだろうか。窓の上部に施された、もう半ば禿げ落ち掛かっているフレスコ画をつぶさに観察すると、1896年の表記が見える。しばしこのノンデータのアール・ヌーヴォー建築を楽しんだ後、いよいよオルタ自邸(059 Musee Hort / Victore Horta)だ。
 近づいて行くと何やら人だかりが見える。入場を待って列んでいる観光客の列だ。17年前を思い出す。ブリュッセルに着いたのが遅く、もう夕方になってしまっていた。閉館しているかも知れなかったが、私はホテルからタクシーを飛ばしてこのアメリカ通りまで来た。扉はもう閉まっていた。私は怖る怖るオルタカーブのドアノッカーで扉をコツコツとたたいてみた。しばらくすると扉が開いた。若い学生風の管理人が顔を覗かせ、もう閉館しているので明日来てくれとのことだった。私は日本からオルタの建築を見に来た建築家である事、明日もう1日ブリュッセルに滞在するが、予定があってここには来れない事等を説明し、ぜひ今日見せて欲しいと、その若い管理人に頼んだ。彼は快く中に入れてくれた。そしてふだんは未公開だと言う修復工事中の3階寝室部分も解説付きで見せてくれ、写真も思う存分撮らせてくれた。
 現在状況は大分違っている様だ。私は入場の際、受付の女性に呼び止められ、カメラバッグを受付に預ける様に言われた。館内は撮影禁止になってしまったのだ。3階の寝室もきれいに修復され、公開されていた。ダイニングから裏庭へ出る扉は施錠されていた。庭には解体されてしまっオルタの作品のバルコニー部分の手摺や、オルタカーブの刻み込まれた外壁の一部が埴栽の間の並べられているはずだが、それを間近に見ることは出来なくなってしまった。
 階段室最上部のシャンデリアを無限に連続するかの様に写し出す悪魔の鏡や階段の手摺、ラジエター等、オルタデザインを十分堪能したら外に出てファサードのデザインを見てみよう。エントランスのガラスの庇、その吊り金物が2階バルコニーの手摺金物と一体となり3階のベイ・ウインドウへと伸びて行き4階アティックへ繋がる、正にオルタデザインの真骨頂を見る事が出来る。
 アール・ヌーヴォー建築の魅力は、それまでの時代の様式やオーダー等の客観的規則を取り払い、エモーショナルな創造的欲望のままに、止まる事を知らないデザインの過剰なまでの奔放性にある、と私は考える。しかし、オルタのデザインは何処迄行っても、破たんの無い抑制のきいたものとなっている。それがオルタの優雅さや流麗さに繋がっている。
 17年前とは大分違った様子となっているオルタ美術館を複雑な気持ちで後にし、次のターゲットを目指す。アフリカ通り(rue Africaine)を北上し、レスター・ドゥ・ファブリベッカー(L.de Fabribeckers)の住宅(060 Habitation / L.de fabribeckers)を見て、デファック通り(reu Defacqz)に入る。この通りにはポール・アンカールPaul Hankar)の建築が3軒ある。最初は31番地のアトリエ兼自邸(061 Maison Hankar / Paul Hankar)を見てみよう。ファサードはきれいに改修され、17年前は真っ黒で、ほとんど見えなかったフレスコ画も鮮やかに修復されている。ヴィオレ・ル・ディックの信奉者であり、日本美術の熱心なコレクターでもあった彼のジャポニスト&ゴシック・リヴァイヴァリストぶりが良く分かるファサードだ。
 粗削りの石積みや4階部分のゴシック・バンガロー風のバルコニー等どこかギマール(Hector Guimard)のカステル・ベランジュ(P-2 Le Castel Beranger / Hector Guimard)を思わせる。ギマールはカステル・ベランジュの設計時、ベルギーを訪れオルタやアンカールの新しい建築を見ている。パリ装飾美術館にはギマールの描いたアンカールの自邸のイラストが残されている。アンカール自邸の竣工は1893年であり、カステル・ベランジュの着工はその翌年だ。ギマールは大分アンカールやオルタの影響を受けているにではなかろうか。
 デファック通りにはアンカール設計の住宅がもう2軒ある。48番地のシャンブラーニ邸(062 Maison Ciamberlani / Paul Hankar)と50番地のルネ・ジャンセン邸(063 Maison Rene Janssens / Paul hankar)だ。ジャンセン邸はアトリエ上部の増築等でかなり手が加えられているが、シャンブラーニ邸はほとんど竣工当時のままだ。外壁のフレスコ画がかなり傷んでいて、何が描かれているのか良く分からないが、その朽ち果て様としている風情が独特の色調と雰囲気を醸し出していて、なかなか素敵だ。アンカールの住宅がポ−ル・エミ−ル・ジョンソン通り23番地、25番地(23,25 rue Paul-Emile Jonson)にもう1軒(064 Hotel Jose Ciamberlani / Paul Hankar)ある。
 フェイダ−通り(rue Faider)に入ると白い施釉レンガのファサードと大きなベイ・ウインドウの住宅が見えて来る。アルバート・ローゼンボーム(Albert Roosen)の住宅(065 Habitation / Albert Roosenboom)だ。4階部分のフレスコ画が鮮やかだ。ブルーの地に流れる様なカーブを描くグリーンの葉、ピンクの花が咲き乱れる花園に天使の様な女の子が戯れ、空には金色に輝く星が鏤められている。ビザンチンのモザイク画を連想させる艶やかでゴージャスなフレスコ画だ。
 大型のベイ・ウインドウを支えるイエローストーンの片持ち梁は下方へと流れ、外壁に飲み込まれたかと思えば再び盛り上がり、郵便受けの受け口となる。さらにブルーストーンの腰壁に吸い込まれ地上部で泥落とし兼雨水排水の開口へと繋がっている。この巨大なベイ・ウインドウはオルタのタッセル邸の影響であると言われているが、ローゼンボームのデザインはオルタより華やかだ。ローゼンボームはオルタの弟子であった。隣の85番地の住宅はアーマド・ヴァン・ウエルシュベルジュ(A.de Van Waesberghe)の作品(066 Maison / Armand Van Waesberghe)だがイリアンド通り(rue d`Iriande)のアスパラガスの頭の様なデザインの住宅(045 Habitation / Armand Van Waesberghe)に較べると、彼の作品の中ではかなり地味なデザインだ。
 ポ−ル・エミ−ル・ジャンソン通り(rue Paul-Emile Jonson)を進むと右手にオルタのタッセル邸(067 Hotel Tassel / Vioctor Horta)が建っている。この建物が最初のアール・ヌーヴォー建築と言われているものだ。オルタがソルベイ・カンパニーの技師エミール・タッセルのためにこの住宅を建てたのは1893年である。ユダヤ人東洋美術画商サミュエル・ビングがパリ・プロヴァンス通り22番地に「メゾン・ドゥ・ラール・ヌーヴォー・ドゥ・ビング」を開店したのが1895年の暮れだ。ギマールの「カステル・ベランジュ」の着工が1895年、竣工が1897年である。
 1895年ギマールはベルギーを訪れ、オルタやアンカールが進めている新しい建築のスタイル(「モダン・スタイル」と呼ばれていて、まだ「アール・ヌーヴォー」とは呼ばれていない)に影響を受け、カステル・ベランジュの第一次案をネオゴシック様式から現在のものに変更している。パリの装飾美術館に残されているアンカールの自邸のスケッチも、ギマールがブリュッセルを訪れたその年に描いたものだ。
 独身でパーティ好きのタッセルのために、オルタは大きなベイ・ウインドウのついたロッジア風のサロンを2階に設けている。これがこの住宅の外観上の特徴にもなっている。残念ながら内部は公開されていないので見る事は出来ないが、この建物が最初のアール・ヌーヴォー建築と言われる理由は内部のデザインによる。エンドウ豆のつるが自由奔放に光を求めて突き進む様なオルタカーブが建築中央部の大きな階段ホールの床、壁、天井を埋め尽くしている。この様なデザインはそれまでの建築にはなかった。外部からも中2階の透けて見えるステンドグラスの模様に、その雰囲気を幾分かは感じ取ることはできるだろう。
 ファサードを注意深く観察してみよう。2階ロッジア風ベイ・ウインドウの大開口を可能にしているのはスチール製の梁だ。それも市販品の溝鋼と平鋼をリベットで縫い合わせたものだ。そして、ほぼサッシ方立と同じ見付寸法のスレンダーなスチール・コラムだ。オルタはこれらの構造材を石などの仕上げ材で覆い隠さず、注意深くデザインし露出させている。そして石との接合部では、たくみにデザインされた鋳物の柱脚が、猛禽類の鳥が獲物をわし掴みする様にガッシリと石材を掴み込んでいる。オルタが新しい芸術(アール・ヌーヴォー)の父と言われる理由も、この辺のデザインのパイオニアであったからだろう。この住宅の内部の素晴らしさを自分の目で確かめることが出来ないのは本当に残念であるが、先を急ごう。
 リボーヌ通り(rue de Livourne)を北上し、左にオクターヴ・ヴァン・リッセルベルジュの自邸(068 Hotel Rysselberghe / Octave Van Rysselberghe)を見ながら進むとフローレンス通り(rue de Florence)との交差点の角にオトレ邸(069 Hotel Otlet / Octave Van Rysselberghe)が建っている。先ほど自邸前を通り過ぎたオクターヴ・ヴァン・リッセルベルジュの設計によるものだ。インテリアはアンリ・ヴァン・ドゥ・ヴェルドゥが設計している。この建物は館の様だ。大きい。ファサードは全て石造で開口部やバルコニー等の凹凸が大きく彫が深い。ベイ・ウインドウの張り出し方やエントランス廻り、窓廻りの開口部にゴシック・リヴァイヴァルの香りを漂わせる大邸宅だ。
 この邸宅のオーナー、ポール・オトレは当時の有力実業家エドワール・オトレの息子で、これを建てた時はまだ26才であったとのことなので、彼自身も若くして実業家として成功していたのだろう。あたりはだんだん暗くなってきた。もう写真を撮るのも限界だ。近くのルイーズ大通り(avunue Louise)まで出てトラムに乗り旧市街へ戻ろう。