
ファルスタッフの歩道に張り出したテーブルに座る。アールデコ調のウインドウが良く見えるテーブルを確保する。このファルスタッフ(095 Falstaff / E. Houbin)は内部も中々のアール・ヌーヴォーだが、カフェテラスに面したショップフロントのウインドウもアール・デコ調のデザインで素敵だ。竣工当時のモノクロームの写真を見ると現在の姿はほとんど当時と変わっていない事が分かる。設計はE.オービオンだ。
60〜70席はあると思われるオープン・カフェを若い女性が1人で仕切っている。ショートカットの中々チャーミングな女性だ。動きがてきぱきしていて気持ち良い。客がテーブルに座るとメニューを持って来る。客がオーダーを考えている間、彼女は食事が終わった客の支払いの対応をする。腰に昔バスの車掌が使っていた様な大きな黒い革製のウエストポーチを着けている。その中に釣り銭が入っていて、支払いはテーブルで出来る様になっている。そして支払い客の対応が終わると手を翳して合図をしている客の所へ行ってオーダーを聞く。その作業を手際良く繰り返しこなしている。私も手で合図をし、彼女を呼び寄せオーダーする。茹でた白アスパラ、そしてバケットに生ハムを挟んだサンドウィッチとヒューガルテン・ブランシュを頼んだ。このマスカットの香りの白ビールをゆっくり飲みながらアール・ヌーヴォーについて考える。
アール・ヌーヴォーとは何であったのか? 美術史や建築史の本を開けば、その時代背景と独特の傾向を持った様式について記載されているだろう。19世紀後半ヨーロッパを席巻する第2次産業革命の波。そして技術革新とそれに支えられた新興産業の爆発的増加。新興資本家階級の擡頭。重工業技術の発達がもたらす国際化。新しい時代の波の中で宗教権力や王権社会が崩壊し、その生活様式も同時に崩壊する。新しく登場した資本家階級は彼等の新しい生活様式を欲求する。
それはまずイギリスで先行して起った。ウィリアム・モーリスらのアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントだ。それは純粋美術の範囲を越え、新しい生活様式の中に新しい美意識を展開する運動であった。そして、それらは欧米という限られた範囲ではあったが、印刷媒体に乗って瞬時に国際化した。芸術の分野でも、純粋美術を中心とした様々なサークルが作られ、彼等の作品や思想は雑誌や書籍となって欧米中に伝播した。
そして建築の世界でも当然、その様な運動は起った。ヴィオレ・ル・ディックのゴシック再評価や、アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの中で試みられた中世指向の試み(ウイリアム・モーリスのためにフィリップ・ウエッブが設計した「赤い家」)は既になされていた。しかし、N.ペヴスナーが言う様に「1880年以前、ヨーロッパにおいては何人も歴史主義から完全に離脱することはできなかった。」のである。ヨーロッパ世界の建築は所謂ネオXX主義や折衷主義の呪縛から逃れられないでいた。とはいえ、その様な歴史主義からの脱却はあまり時間をかけないで行われた。建築における「新しい芸術(アール・ヌーヴォー)」は1893年ブリュッセルで誕生する。ブリュッセル・エミ−ル・ジャンソン通り6番地のオルタ設計よる「タッセル邸」(067Hotel Tassel / Victor horta)である。
S.T.マドセンの「アール・ヌーヴォー」を開いてみよう。そこには当時のブリュッセルの芸術状況とアール・ヌーヴォー建築誕生の経緯が詳しく記載されている。「タッセル邸」の内部は床といわず壁といわず天井や階段の手摺までもいままでに見た事のない装飾で埋め尽くされていた。それは正に「新しい芸術」つまり「Art Nouveau」であった。しかし、この新しい芸術の傾向が「アール・ヌーヴォー」と呼ばれるまでには、2年後の「メゾン・ドゥ・ラール・ヌーヴォ・ドゥ・ビング」のパリ・プロヴァンス通りに於ける開店を待たねばならない。とにかく、1893年この住宅は竣工した。スチールやガラスという工業製品と、それらを包み込む、あるいはその上を這い回る、少なくとも今迄に見た事も無い装飾模様。それは1867年の第4回パリ万博がヨーロッパに与えたジャポニスム・ショックか。はたまた、まだヨーロッパがヨーロッパという概念を持ち得ていなかった時代、古代ケルト時代の遠い記憶を産業革命というカルチャー・ショックで思い出した事が原因か.........。
オルタと同世代のポール・アンカールにも同様に、ジャポニスムとゴシック指向を読み取る事ができる。どちらも日本美術のコレクターであり、オルタはS.ビングの「芸術の日本」の購読者でもあった。また彼等はフランスのゴシック・リヴァイヴァリスト、ヴィオレ・ル・ディックの信奉者であり、彼等の作品の中にその傾向は容易に読み取る事ができる。オルタはまず新興ブルジョワジィーおかかえの技術者や弁護士の住宅や別荘の設計から仕事を始め、企業家、大学教授・画家、彫刻家へとクライアントを拡大していく。遂にはベルギー労働党の会館の設計まで獲得する。そして彼の同世代の建築家や彼の弟子達がさらにクライアントの範囲を拡大し、ブリュッセルの新しい顔を造り出した。
その様な傾向はブリュッセルを起爆点として、瞬時に全ヨーロッパへと伝播した。ミュンヘン、ダルムシュタット、ウィーン、パリ、グラスゴー、ミラノ、トリノ、フィレンツェ、シチリア、バルセロナ、プラハ、モスコーへと。しかし、新しい世紀が訪れると、爆発の速度と同じ速度で衰退がやって来る。この「新しい芸術」の過剰な装飾や情緒的造形は野蛮なもの、忌まわしいものとして新しい世紀の人達から忌避され、排斥される様になる。私達はこの新しい世紀の初めに「経済原則」と言う幻想の中で「近代建築」という様式を選択した。当然、その過程で捨象したものもあった。「装飾は罪」というスローガンのもとにに「装飾」という概念に含まれる諸々のものを捨てた。その諸々のものとは一体何であったのだろうか。
今、私達がおかれている時代状況の中で考えた時、私達が持ち得ている建築様式、「近代建築」とは何なのか。偉大なる科学技術の進歩と、その発展過程で醸し出された時代の香りを取り込む事が出来た20世紀初頭のアヴァンギャルド達の成果は私達に何を残したのか。しかし、今やその様な「時代」と「建築」との幸福な融合は遠の昔に一巡し、私達が持ち得ている建築様式は生命の抜け落ちた抜け殻の様なものではないのか。かって19世紀に経験した折衷主義や新XX主義の呪縛のような。
「新しい建築」は建築家と「新しい時代」との「性交」にも似た官能的関係により生み出される。確かに、ここブリュッセルに於て、時代との性交により生み出された「時代の子」としての建築群を約100年後の現在でも、自分の目で確かめる事ができるのだ。私はそのために今ここに来ている。
私達が「装飾」という概念と共に捨て去ってしまった諸々を、もう一度ゴミ箱から拾いだし検証してみよう。その中に人と物、あるいは自然といっても良いかも知れない物とのかかわり合いの中に存在する「神秘性」や「象徴性」と言った私達が遠い過去から引き継いだ人間の精神性に関わる部分が含まれてはいないだろうか。私達は21世紀の新しい時代に「人」が「物(自然)」とか関わり合う手段として「装飾」の概念の中に含まれる「神秘性」や「象徴性」と言ったものを記憶の彼方から再発見しなければならないのではないだろうか。
取り留めの無い、幾分か感傷的な感想を、ファルスタッフ向かいの証券取引所(Bourse)のコリント式柱頭のアーカントスを眺めながら、つらつらと思い浮かべるのであった。![]()
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